藤間秋男の老舗企業訪問

第5回 株式会社 千疋屋総本店

代表取締役社長 6代目大島 博

ひとつ上の豊かさ

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ひとつ上の豊かさ

我が国初の果物専門店として、果物文化のパイオニアとしての誇りを持ち自然の恵みが果物を豊かにするように、果物の恵みで人々の生活を豊かにすることを千疋屋総本店の使命としている。
私たちが目指すのは「ひとつ上の豊かさ」そのひとつ上のために日々味わいを極め、おもてなしをつくしている。
これが江戸時代創業の千疋屋総本店のテーマだ。※掲載情報は取材日時点のものです(2022年1月)

歴史

天保4年(1834年)創業 188年 
江戸時代から続く千疋屋は今年で創業を188年迎える。

武蔵の国埼玉郡千疋村(現越谷市)で大島流の槍術の道場を開く侍であった創業者の大島弁蔵は生計を立てるために水菓子(桃、スイカ、まくわ瓜や野菜)を水路を利用して江戸の親父橋界隈に売りに来ていて発展させていく。

1868年には果物食堂を誕生させ大繁盛させた。フルーツパーラーの起源である。

武士であった創業者から代々伝わる大島家の家訓

勿 奢  おごることなかれ

勿 焦  焦ることなかれ

勿 欲張 欲張ることなかれ


代々この家訓のもと当主は家業に励んできて、危機を乗り越えてきている。
最近のバブル時には企業の多角化が主流だったが、家訓のおかげで本業に専念し、生き延びてきている。

店是も定めている。(会社の場合は社是だが店舗なので店是としている。)




一 客、 二 店、 三 己である。

家訓も店是も社長室に飾られて6代目大島社長も常に目にしている。

店舗の地下で理髪店までして生き延びた歴史

歴史的には江戸時代の「明暦の大火」などで何度も店が焼失している。明治維新では幕府御用達をしていたため御用金が戻ってこなくなってしまった。
関東大震災でも店が焼失している。
第二次世界大戦の復興では日用品を売ったり、1階は店舗、地下は理髪店メロンを営業したりと、果物だけでなく何でも売って凌いできたそうだ。
その荒波に耐えて生き残り今では知名度、商品とも名実ともに日本の果物専門店のトップに君臨する老舗である。

アメリカに留学してブランディングを学ぶ

大島社長は大学卒業後にニューヨークで、日本ではブランディングという言葉も使われていなかった時代に、ブランディングついて学び、その後にロンドンへ。

そして日本に戻ってきてから輸入代行会社勤務を経て千疋屋に入社している。

ブランド・リヴァイタルプロジェクトについて

大島博社長は社長就任後さっそく2001年にブランド・リヴァイタルプロジェクトを立ち上げて新たな改革を打ち出した。
果物専門店としての千疋屋に、老舗としてのブランドは十分に定着しているが、時代に即した千疋屋に進化させるためのプロジェクトとして、2005年に日本橋三井タワーの竣工に合わせて、店づくりからロゴマークの変更などブランディングを推し進め新たなイメージの創出に成功している。
それは数字にも表れていて、先代の時から比べると5倍の売り上げに達していることからもわかる。

のれん分けと3社の共同宣言

千疋屋には千疋屋総本店、京橋千疋屋、銀座千疋屋とあり、一般にはわかりづらい。
それぞれが独立経営で姻戚関係なのだが、千疋屋のイメージやクオリティを保つために、3社で交流会を持っている。
仮に1社のイメージが損なわれると3社すべてにダメージがくる可能性も秘めているからである。
そこで2008年に共同宣言を作り、その宣言に基づいて3社は経営をしているそうだ。

事業承継

64歳(2022年)になる大島社長だが、ご子息がちょうど大学を卒業したので銀行に5年くらい務めてから千疋屋に入らせるとすでに考えている。
ITと開発に強いご子息らしく、新たな千疋屋にしてくれることを期待しているそうだ。

藤間秋男からひとこと

今の千疋屋さんは順風満帆だと思いますけど安心すると駄目なのでね。
さらなる進化をし続けるということ、そして5年後にご子息が入ってきたときにきちんと体制を整えてあげていることが大事。
経営が難しいのは品物自体はそんなに変わらなくとも、人が変わってくるのでやはり、うまく継いでいくということが大切なことではないかなと思います。

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