藤間秋男の老舗企業訪問
歴史
創業1789年 寛政元年 創業230年の江戸から続く歴史を持つ蕎麦の名店総本家更科堀井は信州で布の商いから始まるが江戸では保科家(信州の大名)の長屋に泊まることが許されていた。
堀井家8代目の時に保科の殿さまに蕎麦打ちがうまいことから蕎麦屋をやれと始めたのが“信州更科そば処”である。
信州更級郡の更と保科の殿さまの科を取り更科と名づけている。
更科蕎麦とは
更科蕎麦は白い蕎麦粉であり、蕎麦の実から10%しか取れない。
大名家や将軍家に届ける場合に今までの黒い蕎麦だとくっついてしまうので、白い蕎麦の更科蕎麦が誕生した。白い蕎麦はくっつくことはないそうだ。
また、高級感もあり4代目のおばあちゃんはより高級な蕎麦としていったそうだ。
当時、普通のもりそばが15銭の時に1円の値をつけて販売。天ぷらそばは伊勢海老したそうだ。
名店としての名を欲しいままにしていた更科堀井だが、廃業による危機もあった。どの老舗にも代々の中には放蕩者も出るが更科堀井の場合もまさしくそうであった。
当時相当資産を蓄えたらしく銀行(麻布銀行)も持っていたが、昭和の大恐慌と7代目の放蕩で廃業の憂き目にあっている。
廃業から新たな開業も思うようにならず廃業はしたが、麻布の名店で名が知られていたため地元の人たちが出資して蕎麦屋を再興した。
そこには廃業に追い込んだ7代目も汗をかきながら蕎麦を作っていたそうだ。
しかし、高度成長期でもあり繁盛し始めると出資者たちは欲が出て自分たちのものにしたいとの思いで堀井が持つ株式も減っていくことになる。
総本家更科堀井
堀井社長の父である先代は、本当に美味しい蕎麦を作りたいとの一心で堀井社長と新たな蕎麦屋「総本家更科堀井」を堀井家として立ち上げる。
本当の美味しさを追求するために旧知の薮の本家や砂場の本家に行って教えを請いたりもしたそうだ。
同じ蕎麦屋として本来なら競合の蕎麦屋に教えることはしないが、各店の伝統の蕎麦の美味しさを惜しげもなく教える「藪」や「砂場」の心意気に日本の蕎麦屋のすばらしさに感動する。
企業理念
あなたのそばにいつも日本の蕎麦と口福を現社長の堀井社長が新たに考えたそうだ。
幸福の幸は口である。
事業承継
息子が二人いるが継ぎなさいとは言っていないそうだが、二人の息子は継ぐ意思があり今後の交通整理が大事だと堀井社長は話す。
兄のほうはGoogleに勤めていて、マーケティングに長けているそうで、弟は職人として腕を振るいたいとすみ分けはできていそうだ。
Googleで働いていることで日本蕎麦を新たな方向へ導いてくれることを期待しているそうだ。
日本の食文化の向上を目指したい
堀井社長は相対的に日本の食は価値が低いと思っているので、食の価値を引き上げ、コラボレーションによって価値を高めていくなど新たな動きもしているそうだ。
藤間秋男のひとこと
私は本当に老舗といえども亡くなるんだということを考えさせられました。
しかし、その思いを持った人がもう一度再興して、なおかつもっと美味しい蕎麦を作るんだという思い、その思いを息子さんが継いで、また次の息子さんたちが新しい学びをして続いていくというのはやはり老舗の良さだなと思います。
素晴らしいですね。
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